文化文化ってなんだという話

仕事が始まるとなかなかブログが書けない。

月曜日の午後は上野の古代アンデス文明展に行った。

  

ぼおっと展示品と解説文を読んでいたのだが、いくつかのことに気づいた。

 

まず、インカ帝国の治世は思っていたより短かった、ということである。

インカ帝国を滅ぼしたのはヨーロッパ人であり、従って新大陸「発見」以降のことだと知っている以上、インカ帝国はだいぶ新しい「国家」だ、というのはなんとなくわかる。

 

では、インカ帝国はいつからできたのか、どれくらい続いていたのだろうか。

インカ帝国の版図は広大(アンデス文明最大)であり、かなり政治的に組織化がされていたというのは何となくわかる。なんて言ったって山のど真ん中にマチュピチュを作ったわけだし。インカ道のことも「マチュピチュ探検記」を通勤中にざっと読んで何となく知っていた(ステレオタイプなオーストラリア人とステレオタイプなニューヨーカーのが歩き回っていた気がする)。幹線道路と政治的組織の関係は知らないがまあ物理的な統治機構みたいなもんだろう。

 

さらに、ごく少数のヨーロッパ人に対抗できなかったのは、内輪もめが原因、というのも何となく知っている。

そうすると、インカ帝国は数百年続いて、そろそろ屋台骨が怪しくなってきた頃にヨーロッパ人が現れた、ということになるのか。

 

大はずれだった。

 

インカ帝国の成立時期は1430~40年頃、応仁の乱のちょっと前だ。皇帝アタワルパが処刑されてインカ帝国が滅んだのは1533年である。たった百年しかインカ帝国の治世は続かなかったのだ。

(そもそもいつからいつまでをカウントすべきなのかという問題は残る)

 

言われてみれば、ペルーでマチュピチュと双璧をなす知名度を誇る遺跡、ナスカの地上絵を作ったのはインカ帝国ではない。

 

でも、インカ帝国といえばどこか「古代」的な響きを帯びる気がする。

それはぼくが浪人中、Civilization4でインカ文明(で、ライオンとか蛮族の戦士にはしばらく負けないケチュア戦士)をだらだら使っていたからかもしれないし、マチュピチュの神秘的な雰囲気(行ってみて思ったが、母校に似ている。なお母校は神秘的ではない)がそうさせるのかもしれない。もしかしたらごく少数のヨーロッパ人に鉄砲であっという間に滅ぼされたからかもしれない。

 

そして、自分の評価というものは相当偏見にまみれているのかもしれない。

多分そうだろう。

 

上でナスカの地上絵のことに触れたが、地上絵を作ったのはナスカ「文化」の人々だ。ここがもう一つの点だ。

 

展示では、インカ以前の「文化」と国家についても触れられていた、というかそっちがメインかもしれない。

 ふと気が付いたのは、○○文化は強力で中心都市の権力者がどうのこうの、とか、□□王国が××文化を滅ぼし、みたいな記述があったことだ(うろ覚えなので、もう少し言葉を選んでいると思う)。

 

はて、いつから「文化」は政治的単位みたいな扱われ方をするようになったのか。

弥生土器縄文土器を滅ぼすのか。

おそらく、考古学上の分類で何らかの社会があったことは推測されるが、政治的にどれほど組織されていたかはよくわからないといったあたりだ。学説に争いとかがありそうである。

そのうち論争の枠組みそのものから問い直す作業の必要性が博論の序章で叫ばれたりするのである。

 

そういえばCivilizationでも領地が広がるのは文化圏が拡大したときだった。

文化が貧弱な都市はいつの間にか領土を削られ、飛び地になったりした挙げ句食糧不足で人口減少の憂き目をみたりモンテスマが暴れる原因になったりするのである。

昨日の世界」を読むにたぶんそんな単純ではないので特に教訓はない。