うっかりえらそうな本を買ってしまう癖について
目の前に積ん読の山がある。
文庫ならまだいいのだが、昨日はA.G.フランクの「リオリエント」を買ってしまったのでさらに厚みが6センチほど増した。
買った理由は大学院時代の選択課題図書に入っていたのを思い出したから、という薄っぺらなものであり、ただの衝動買いであることからして今後読むのかはわからない。
そもそもウォーラーステインとフランクの世界システム論に関する論争の発端の書である(と帯に書いてあった)にも関わらず、ウォーラーステインの主張を理解していないのが痛い。
岩波からでているやつは訳者が推薦してたのでそのうち買って読みたいなあと思っているが、高校世界史の図表に載ってた、あと従属論あたりの話で聞きかじった半周辺とかしか知らない。
そもそも世界システム論にそんなに興味があるのかと言われると自信のないところ(川北先生のちくまの入門書も積ん読のままである)。
強面のお高い本を買っては棚に飾ったままということがここ数年続いている。一応読んだ偉そうな本といえばモンテーニュのエセーくらいで、しかも中断ばかりだったので二年半もかかった。書くのにはもっと時間がかかったのだろう。講談社学術文庫の「モンテーニュ」も読みかけのままだ。
ショーペンハウエルが「読書とは他人にものを考えてもらうこと」と書いていた(ほかの内容は忘れた)が、そもそも難しい本だと漫然と流し読みしているだけで考えてすらいない。最近だとカール・シュミットとかセクストスとかは読んでないに等しい。エセーだって内容はほとんど忘れてしまった。しかし形式上積ん読ではなくなっているのである。
えらそうな本の名前を並べて偉そうにするなんてまるっきりのバカだ、という言葉をとある本で読んだがまさにいまの自分だ。気が向いたら書評でも書きたいと思う。誤読の勇気。
えらそうな本といえば、ブルデューが最近気になっている。一年前の今の時期もそんなことを言っていた気がする。確かその時は修論提出が終わって暇だったので訳者の入門書(いま調べたら「差異と欲望」)を図書館で読んだ。これかメチエの入門書でも読みたいなと思う。
大学院の友人によるとコレージュ・ド・フランスの講義録がおもしろいらしい(仏語/英語で読む気力はない)。
バーナード嬢の気持ちがよくわかる。
エセーの最後の方に生活を整えるのがどうのこうのと書かれていた(気がする)ので、連休最終日である今日は生活を整えることに専念したい。とりあえず眼鏡の調整に行ってきた。
本ばっかり読んでいるのもよくないなあと思ってブログを始めたのに結局本の話をしている。
最初の方はそんなもんだろう、と思う。